V燕市産業を支えた業界
伸 銅・圧 延
江戸時代の銅器・煙管の材料は間瀬銅山から採掘された鉱石を製錬して作られた銅塊を金鎚で叩き板状に伸ばして作られたと云われています。

大正10年間間瀬銅山は閉鉱となりました。業者は地元材料問屋を通じて東京、京都から仕入れたものを使用していたが、洋食器、きせる等の材料需要が多くなり、輸送、納期、屑の還元等の問題で業界は地元供給を強く要望したところ、大正11年東京の清峯伸銅所が燕に進出して伸銅所を開業することになりました。

大正15年燕洋食器工業組合は政府の補助事業対象となり、共同施設として、前記清峯伸銅所の設備一式を買収して共同伸銅所を開設し、組合員への材料供給事業を開始しました。

原材料は共同購入、用途別主原材料の配合により合理的な価格に供給され、組合員の効率効果は多大なものでありました。その後業界は地場産業の発展と共に真中材料(銅・亜鉛の合金材)の需要が増大し共同伸銅所丈けの供給では足りず、三条、燕地域の民間の伸銅所が4〜5件開業して供給されるようになりました。当時の生産量は300トン位であったと云われています。

昭和15年以降は非鉄金属は製造禁止となり、それぞれ軍需産業へと転向して行きました。

昭和20年の終戦後は、直ちに斯業に復帰して創業したが、原材料不足と価格不安定のため洋食器業界はステンレス材に全面的に切換えた。そのため急據ステンレス板圧延加工設備に改善し、中央ステンレス鋼材メーカーの素材を、夫々の設備と技術の特色をもって圧延加工業に転換してステンレス材の供給する業務となって、鋼材メーカーと業者間のパイプ役となって業界の資材供給の大役を担って業界発展に寄与されてきました。

しかし乍ら中央ステンレス鋼材メーカーは生産技術の向上と生産設備の合理化により、ステンレス材料の製品としての供給態勢が確立され、圧延を必要とするステンレス素材は限定される範囲で量的にも著しく減少し、業者は廃業または転業の止むなきに至り現在は23社の工場で圧延供給されております。

地元鋼材メーカー明道金属株式会社初代社長明道吉之助は戦後直ちにステンレス材を圧延して市内業者に供給しておりましたが、ステンレス材を溶解から圧延までの一貫作業により良質のステンレス材料の製作に着目されました。

同氏は戦後誰よりいち早く単身渡米して、USA鋼材メーカーの製法を研究習得されて、帰国後直ちにステンレス材製製造工場を建設し、昭和28年操業を開始したので、業界の注目するところとなりました。製作された材料は地元業者に適切な合理価格で供給され、外部メーカーとの量的調整、価格抑制に協力され洋食器業界の進展に大きく寄与されました。

彫 刻・彫 金

江戸中期に江戸・福島会津から彫刻技法が導入されたと云われているが詳しい記録がないため定かではありません。

明治18年(1885年)福島県会津若松から移住してきた彫師大原幸太郎が文字を彫刻したのが始まりでありました。同人は若松屋の屋号で彫刻の仕事のかたわらに徒弟を指導育成されました。

此の若松屋に弟子入りして修業した広田広三郎が雲月広正と称して明治33年独立開業しました。

氏は銅器、きせる等に花鳥の模様を象がん彫刻等の技術を展開して、業界に彫刻技術加工により商品価値の向上に広く寄与された功績は多大なものでありました。

此の人も数多くの徒弟を指導育成され、現在でも此の系統の技術を収得された多くの方々により技術が承継されてきました。

此の雲月広正に弟子入りして技術収得して開業された、野島広一は「野島秋月」の称号で、彫刻・彫金界の師として活躍された人でありました。

特に大正年代洋食器の機械生産に伴う金型開発等について最初に手がけられた先人彫刻師として、多大な労苦と共に研究研鑽をされ、業界の機械生産に多大に貢献された人でありました。此の人も現在活躍している多くの業者を徒弟として指導育成され、その彫刻技術が承継されております。

昭和年代に入り彫刻業界は地元産業界の銅器、きせる、洋食器の品質向上と生産基盤を支え、彫刻・彫金技術の向上とともに大きく発展するに至りました。

また彫刻技術習得して開業された業者も多くなり、組織化により協力協調と相互繁栄を図るべく、昭和23年12月燕金属彫刻組合を設立されました。

組合設立以来、年月を重ねて半世紀、平成10年は50周年の大きな節目を迎え今後益々の発展を期しております。

昭和45年7月通産省工業技術院の指導と支援のもとに、燕金属彫刻組合、東京工業彫刻協同組合、日本彫型協会、関西金属彫刻工業組合と彫刻機械製作業者の協賛と協力を得て、彫刻技術の全国的近代化と彫刻技術の連携機関として「全国工業彫刻連絡協議会」を結成設立しました。

同協議会は毎年交互に年次大会を開催して、相互の彫刻情報、技術の研究交換を行い、創造性彫刻技術の開発の発展に成果を上げております。

現在は産業構造改革の時代、手作業による彫刻技術もその域を脱し、高度な精密技術による彫刻機械の開発により、その機動性を発揮して新産業分野の市場開拓をはかり、創造性彫刻技術をもって彫刻工芸美術を展開し、業界の益々の発展を期しています。

  組 合 名  燕金属彫刻組合
  設立 年月  昭和23年12月


研     磨

大正初期草創の時代は洋食器は手づくりであり研磨は、羽布も研磨材もなく「ほおの木の木炭」と、キズトリのための軟らかい砥石等に水をつけて磨きだす手加工でありました。

大正10年ころから皮や布で作られた羽布で磨かれるようになり、羽布や研磨材はその頃から研究改善されてきました。以後メッキ前の表面処理として研磨は大切な工程として、メッキ業と研磨業の分離が始まり、研磨は家内工業として年々増加し最高のころは1700事業所に及んだ。

業界は戦前各業界の昭和初期の好況時代洋食器と煙管の研磨はそれぞれ専門分野に別れて協業してきました。

戦後、貿易再開後は朝鮮動乱後の不況時代にあり乍ら、対米貿易を始め各国との輸出拡大の影響で連日連夜忙しい毎日研磨業の繁栄時代でありました。

高度成長期の昭和40年頃は自動研磨機の開発で一時研磨業界は不安定もありましたが、研磨工程の単純合理化分業となり、品質向上とともに生産性向上へと展開して成果を上げることができました。

輸出が多忙であった洋食器研磨業界は輸出制限調整時代、後進国の追い上げ及び内外の経済情勢の変化により、親企業の生産数も減少し、各自の企業努力と親企業との協力協調を維持し一部家内工業も減少してきたが、地場産業の発展に協力しております。

戦後50年の世代替りの今日、家内工業と雖も作業者の高 齢と共に作業員数も減少し、後継者の問題も含めて、今後の情勢判断と新分野への転出等これからの展開が大きな課題となっています。

   組 合 名  燕研磨工業会
   設立 年月  平成2年9月

   会   名  日本金属研磨仕上げ技能会
    (旧新潟県金属研磨仕上げ技能士会を平成2年上記名称に改名)
   設立 年月  昭和61年6月


鍍  金(メッキ)

燕産地のメッキは明治32年ころ田巻嘉右門と云う人が元祖と云われて、筆メッキとして「金天」「古美」ニッケルと云われたのが始まりであったといわれています。

明治末期から大正初期ころは結城正克が、発動機で装置を動かして、ニッケルメッキを加工したものであります。後に笹川大作、捧信、丸山鍍金工場が開業されました。昭和13年頃からは鈴木平三郎から生地かけクロームメッキ技術を習得した業者が本格的にメッキ工場が操業をされました。しかし乍ら当時の生地がけクロームメッキは製品のメッキ附着の表面が電流の関係で品質が安定せず、且つ加工不良が多くてコスト高となり不評でありました。

大正14年この生地がけクロームメッキの不評解決のため、当時洋食器の製造とメッキの一貫作業をしていた小林鉄之助が1ヶ年近く研究の結果ニッケル下づけクロームメッキの技法を改良発明され、此の問題が解決されました。このメッキ技法を業界に広く公開して燕産地メッキ製品の品質向上に役立ちました。その後輸出、国内向けはクロームメッキ、業務用は銀メッキ加工を基本として業界を支え、大きく発展してまいりました。

昭和10年前後の全盛期であったメッキ業界も昭和16年頃からメッキ用化学薬品材料が統制で入手困難となり日常の作業もできなくなったため、それぞれの分野で軍需産業へ転換して昭和20年の敗戦を迎えました。

昭和22年新潟県鍍金工業組合を設立して、暫時好況の時代を経緯してきたが、昭和25年ころから主産業の洋食器がステンレス材に全面的に切り換えられ、メッキ加工が不要となりました。業者は他産業に転換あるいは規模縮小の状態となり、組合員も減少して解散するに至りました。

昭和39年鍍金工業組合を経て、昭和47年新潟県鍍金工業組合に改組して、公害問題や特化則法による環境整備及び鍍金工業団地造成や共同施設等の事業を展開し、組合員の組織化と団結を図り今後の発展を期して今日に至っております。

近代メッキ業界も各分野にわたる業界に参入し、メッキ技術の多面的化学研究を進め、近代工業に対応して高度な発想の転換をはかり時代の要請に応じて発展しております。

  組 合 名  新潟県鍍金工業組合
  設立 年月  昭和47年7月 


産 業 機 械

草創時代の洋食器生産は手づくりから始まり、大正9年動力電気導入により機械生産されるまでは、当時は手加工道具として、金鎚(かなづち)台切鋏(だいきりはさみ)鑢(やすり)銑(せん)等を用いて作られ、その後手廻しエキセンプレス(猫プレス)の大小型のものにより作られ人力が多少楽になり、今にいう省力化されたようなものでありました。

基幹産業の洋食器、ハウスウェアー業界の生産基盤を支えた産業機械はその大部分は地元燕鉄工機械業者により、開発されて製作されていることは産地業界としては他業界にはない大変な強みでありました。

大正年代、昭和初期のころは早川鉄工所、昭和年代は霜鳥鉄工所、坂口鉄工所等により製作販売され、産地産業の生産原動力としてその役割を果たしてこられました。昭和13年頃に燕鉄工機械工業組合を設立して業界の組織化と発展を期して、産業機械の改善改良の研究と生産機械の普及拡大を図り、併せて産地産業の生産態勢の確立に協力して発展してき ました。

又業界の遠藤松次郎は東京の池貝鉄工所の協力を得て、各種工作機械の導入とともに、業界の機械化生産並びに設備改善の促進に大きく寄与されました。

戦後基幹産業はステンレス製品への大転換により、生産工程の改善に伴い、一部工程技術の企業化、設備装置の改善、自動研磨機の開発等、産地の構造改革、企業合理化の第一歩となり、洋食器の世界市場に雄飛する要因となりました。

@電解研磨技術の開発企業化
産地業界の一部で電解研磨技術が研究されたが企業化の段階に至らず、昭和25年鞄圏z理化学研究所が電解研磨技術の研究と生産工程の企業化として開発され、研磨工程の改善と品質の向上、量産生産に対応が可能となりました。

A超音波洗浄機械の開発
昭和26年に産地産業と関係のあった東京の会社で洗浄方法の研究により超音波洗浄機械が開発され、直ちに産地に導入されて以来、業界に広く普及されるに至り、従来の1本1本拭きとり作業から化学洗浄処理により、量産化、省力化となり包装革新として生産性を大きく上げることができました。

B自動研磨機の開発
研磨は製品の最終工程で品質向上と量産化の最大のネックとなっていました。

昭和26年〜27年頃小林工業鰍ゥら富士食器椛シは米国から自動研磨機を輸入したが、まだ改良する余地が多くて予期した成果を上げるに至りませんでした。

その後縦形自動研磨機が新潟市振興製作所で製作されたがその性能が不備で更に改善を必要となりました。

昭和30年小林工業鰍ニ振興製作所と共同研究の結果横型自動研磨機が開発され昭和45年頃までには業界の主要工場の大部分に設置されるに至りました。

又地元且ト山機械では半自動横型簡易研磨機が1000台製作され下請中・小企業向け普及拡大され、又一部では外国製自動研磨機の輸入等もあり、業界は全面的に機械研磨に移行し、産地構造改革と品質向上量産化により輸出振興に多大な成果を上げることができました。

C産業機械自動化・ロボット化開発
昭和50年以降平成年代の現在に於いて業界は構造改革、技術水準向上、工程改善、省力合理化、労働安全対策等の推進により各種産業機械全般に亙り、自動化、ロボット化の改良改善が要請される時代となり、既に無人化操業工場の立案、実現に向けており、ロボット化操業工場もあり産構造改革も日増しに進展している現況であります。


且ト山機械では産業機械の省力化機械製造業者として、創業以来近代的工作設備と高度の機械技術の研究開発により、各種省力化産業機械を完成し、新潟県知事・中小企業事業団より中小企業関係機械開発事業に貢献したことで表彰を受けられております。

又地元潟nセガワマシーナリ機械製作所の圧延ロールは画期的な性能ある機械と業界から高く評価されております。近年同業組合も燕機械工業共同組合と改名して、陣容も新たに世代替りの新技術陣の研究研鑚により、之からの構造改革時代に求められる、新分野、新産業への進出展開が予測される産地産業界に対応して、生産の能率化と機械能力の可能性を無限に追求して、生産原動力となる産業機械の開発に大きく寄与され、秩序と協調と技術研究をもって燕機械工業界の発展を期待いたします。

近時開発された自動・ロボット化産業機械(抜粋)

機  械  名 用  途  区  分

・リキッドフォーミングマシン

・液圧成型プレスでポンチ金型だけで被加工物をダイス(液体)に圧入するプレス。

・リターンプレス
      T-200

・従来のフレキションプレスに変わる基礎のいらないプレス。

・ロボットマシン
     
FFS-50-RT200

・自動供給でつかみの有するワークの模様加工を行う。

・ロボットマシン
     FS-50-KSC35

・自動供給でつかみの有するワークのカッテング加工を行う。

・ロボットマシン
     
ATP-900-USG5

・自動供給でステンレス板から製品の原型をカットする。

・ターンテーブル式
      自動羽布研磨機

・洋食器の9工程を同時研磨作業を行う。

・マシーナリー
      圧延ロール
R-104

・よりきれいに。より早く。より静かに作業ができる性能を有する。

組 合 名   燕機械工業協同組合


プ ラ ス チ ッ ク

燕市産業界の導入されたプラスチック産業は、戦前の昭和18年ころ、軍需部品用のプラスチックの成型金型を坂田金型製作所が東京の業者から受注して、指導を受けながら研究し、金型を製作納入して、始めてプラスチック製品に関することを知り得たのが始まりであったと云われています。

戦後昭和24年頃から燕産地において、プラスチック成形、金型、成形加工技術、加工用油圧機械等について、燕三条地区業者及び金型製作所により研究、開発が進められました。

昭和25年から時代の要請に応えて、燕地域では渇涛S製作所、三条地域では轄イ野合成、且O行合成その他加茂、白根の生産業者を中心として、燕三条地域の産地問屋向け商品として茶托や菓子器、コップその他電気部品等が生産され、併せて家内工場関係に広く委託加工が普及拡大され、プラスチック発展の基礎作りとなりました。

特に成型金型製作については、従来の金属製品の金型と全く違ったものであり、その製作には可成りの苦労が伴ったと云われていました。幸い燕の彫刻・彫金の独特の技術と硬質メッキ技術が金型製作及び商品開発に多大の成果を上げることができたと云われています。

当時東京都に開催された「全日本プラスチック製品コンク―ル」に渇涛S製作所が特殊金型・特殊成形加工技術による製品を出品され、見事最優秀賞を受賞され、全国プラスチック業界において注目されるところとなりました。

急速に進展してきた燕産地プラスチック業界は組織により、団結と協調をもって今後の発展を期し、協同組合を設立して協同受注や情報交換、技術研究等の活動を展開しました。

  組 合 名  燕プラスチック工業協同組合
  設立 年月  昭和32年9月

昭和34年洋食器業界は対米輸出制限に際し、プラスチック等の異種材ハンドル製品は規制外となり、洋食器業界との連携による商品開発が急速に展開され、その製品が好評を得て生産拡大となりました。

またハウスウェアー業界も製品部品として、プラスチック製品が求められ、二大基幹産業の複合製品として、他地域業者と異なった有利な状態の中に発展し、昭和40年〜50年の最盛期の業者は170事業所に及びました。

昭和40年4月プラスチック業界は一地域でなく、県下全地域に進出している現状から、県下の業者の組織化と秩序維持確立のため、「新潟県プラスチック工業振興会」を設立して、業界の発展を期して今日に至っております。

プラスチック業界は高度の技術展開と新規合理化機械と高品質に改善された原材料の量産化供給に伴い、その製品分野は自動車、電気部品等の基幹産業を始め、広範囲に亘る分野、産業界に拡大展開され、その加工技術も多種多様に及び、成形技法も射出成形加工法により、原材料は可塑性製品(ポリ プロピレン、FBS樹脂、スチロール等)で多能的量産化され現在ではプラスチック製品の主要を占めております。

プラスチック業界は近代情報化時代に対応して、高度の技術と創造活力をもって、このきびしい経済改革の時代を乗り越えて、企業の安定経営を目指して今後一層の発展を期しております。

  組 合 名   新潟県プラスチック工業振興会
  設立 年月   昭和40年4月


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